人がつないだとちぎ秋まつり 140余年
【隔年開催】

今なお受け継がれる「小江戸とちぎ」旦那衆の思い

とちぎ秋まつりは、五穀豊穣を祈る神事ではなく、江戸との舟運で栄えた「小江戸とちぎ」の商人の心意気と財力で作り上げてきた祭りである。
江戸後期から明治にかけての栃木市は北関東最大の商都であり、喜多川歌麿との交流など、威勢の良い旦那衆が経済、文化の牽引役であった。

この祭りも明治7年、倭町三丁目の商人たちが山王祭で使われていた静御前の山車を日本橋の町内から買い取り、泉町の有志が宇都宮から諫鼓鶏(かんこどり)を購入して神武祭で披露したことが起源である。今だと一台一億円を超える代物、栃木から大勢の警護を引き連れての買い付けだったという。
それ以後、旦那たちは競うように山車を購入・製作、慶事がある度に披露した。当時の人々の興奮は想像するに難くない。「おらが町の山車が一番」誇らしく晴れがましい人々の笑顔。旦那衆にしてみたら、これぞ旦那冥利に尽きるということだっただろう。

そして、時代は変わっても、この旦那衆の思いは人々の中に息づいている。
山車の組み立てを行う職方として参加し始めて40余年。現在、山車巡行の責任者であり、山車の先導を担う万町一丁目の頭、齋藤さんは言う。「この祭りは旦那さんのもの。旦那衆が減ってしまっているのは寂しいけど、旦那さんの思いは人を喜ばせることだと思う。今では遠くからも多くの観光客が見に来てくれる。この豪華絢爛な山車を曳いて皆が驚いたり、喜んだりする顔を見るのが私のやりがい」

頭だけが羽織るのを許される羽織は、明治13年に作られたもの。鹿革でできており、かなり重い。「袖を通す時はいつも身が引き締まる思い。伝統の重みというかね」頭から頭へと祭りを成功させたいと思う気持ちとともに代々受け継がれてきたものだ。

また、祭りは生き物であり、人々の情熱がその姿をエキサイティングに変えてきた。山車を曳き回すだけでなく、笛や太鼓を響かせ、山車を向き合わせてお囃子を打ち合う、ぶっつけが始まったのだ。夜の帳が下り、提灯に照らされた山車が暗闇に艶めき始めると、お囃子は一層高らかに鳴り響き、観客をも巻き込んで会場一体を凄まじい熱気で包み込んでいく。夜のぶっつけは、とちぎ秋まつりのクライマックスとなった。

泉町お囃子保存会の松島さんは言う。「あの一体感と高揚感はたまらない。異次元の素晴らしい世界。この会ができたのは今から40余年前、それまでは他の地区のお囃子連に頼んでいたから小山市大本中村にお囃子を習いに行くことから始めて……初めて山車に乗って演奏した時はこれぞ祭りの醍醐味って身体が震えたよ。この誇るべき郷土芸能は次代に伝承していきたい」

現在10代から80代までの20名のメンバーがおり、月2度の練習を欠かさず続けている。親子2代で参加し、お囃子を胎教に育った小学生もいるという。

人々の情熱、喜びが140余年の時をつないだ「とちぎ秋まつり」
旦那衆たちの思いは今なお受け継がれている____。